浄瑠璃 竹本中美太夫

本来浄瑠璃は中世におこった語り物でしたが、後に人形芝居と結んで人形浄瑠璃を形成するにおよび、歌舞伎とならんで華やかな展開をみせました。特に元禄年間には竹本義太夫が出、一方作詞者に近松門左衛門が出たことで人形浄瑠璃は完成をみました。全国でも浄瑠璃熱が高まり猪名川町域でもさかんに浄瑠璃会が催されました。

そのような環境の中、西山松助は幼少の頃から浄瑠璃を好みました。彼は多紀郡後川村(現篠山市後川)の出身で土井市左衛門の次男・名を柴助といい、12~13歳ごろから大坂へ出て三代目竹本中太夫の門弟となりました。はじめ美太夫と名乗っていましたが、文政8年(1825)8月に師匠が死去すると、中太夫の中の文字を伝えるため中美太夫、本名を松助と改名しました。同じ頃両親とも死別したので故郷へは帰らずに川辺郡清水村(猪名川町清水)の福井佐助の世話になっていましたが、同12(1829)年島村(猪名川町)の西山文七の子となり、やがてかねと結婚、小間物屋を営むかたわら浄瑠璃の普及につとめました。

この中美太夫の名跡はその後猪名川町域と能勢町山田・天王地区を分布圏として現代に継承されましたが、残念ながら猪名川町は第22代を最後に太夫がいなくなりました。その後は能勢町山田地区で受け継がれ、現在第25代の竹本中美太夫がいます。第24代・25代の弟子となった二人の猪名川町在住者が、猪名川町での竹本中美太夫の名跡を復活すべく、現在稽古に励んでいます。

猪名川町内各地には、浄瑠璃の太夫だった人が建てた石碑が残されています。

(文責 末松早苗)