大野山は「ひえの山」とも呼ばれており、古文書『大野山日光寺開山実記』に山岳寺院の日光寺が戦国時代まであったと書かれていることから、山岳信仰(修験)の場であったと考えられます。また神亀3年(726)、聖武天皇の命で大野山に登った行基の前に、三寸七分の地蔵尊像が現れたことにより一寺を建て、また天長元年(824)淳和天皇から大野山日光寺の勅号を賜り、本堂他28坊を誇っていたが、のちに兵火にかかり麓の杉生に移った(杉生地区にある地蔵院)とあります。
また山中には摂津国(大阪府北部と兵庫県東部を合わせた地域)と丹波国(兵庫県北中部と京都府北中部を合わせた地域)との境を定めた岩が存在します。元禄11年(1698)摂津国川辺郡柏原村と有馬郡小柿村そして丹波国多紀郡後川村の農民の間に山境争いが起こりました。山論は村境争いでもあり、また摂津国と丹波国の国境争いでもありました。
それに対して幕府は元禄12年、京都奉行所の裁判(裁許)により、境を明示するために、岩に「界〇〇」の番号を刻みました。元禄界石は35番まであります。一般的には山境は分水嶺で決めますが、後川側に下った所へ裁許されたのは、天領(幕府の直轄地)と私領によるものかと思われます。
(文責 末松早苗)